前回投稿から、だいぶ時間が空いてしまった。5月20日。だいぶしんどい。そういえば、と思って、2023年の8月ごろの写真を見返してみた。コロナに(多分はじめて)罹患して、燃え尽きと重なって4週間外に出れなかったとき。

あのときかろうじて聴けた曲は、中島みゆきの「最後の女神」と、鬼束ちひろの「Cage」だった。
だれか言って
激しく揺さぶって
「もう失うものなど無い」と
ひとりにしないで
どうか夜があけるなら
私を現実ごと
連れ去ってください
温かく愛おしい声も
増えてく擦り傷に敵わなくなって
だらだらと残した
わずかな奇跡を何度も振り返り
確認したり(鬼束ちひろ「Cage」)
まだ見ぬ陸を信じて
何故に鳥は海を行けるの
約束を乗せた紙は風のなか
受け止めてくれる人はいるだろうか
ああ あれは最後の女神
天使たちが歌いやめても
ああ あれは最後の女神
紛れもなく君を待ってる
心は変わる 誰もが変わる
変わりゆけ 変わりゆけ
もっと好きになれ(中島みゆき「最後の女神」)
冷静でいよう、と思っても、冷静になりきれるほど、現実主義者でもない。かといって、理想を追って情熱を燃やせるほど、強くもない。自分の平凡さを受け入れるためにかかる時間が多いほど、どんどん弱くなっていく。
燃え尽きたところから、灰から、何かがまだあるだろうか、と思ったとき、また何もなくなる。それでも、やるべきことも多いし、背負ったものも多い。責任をもつ、というのはほぼ、犠牲と同じ形をしている。呼びかけられたことに対して、response:応答をする、というresponsibility:責任は、そう軽やかに遂行できるものではない。私がかろうじて差し出せるものは、例えばもう、過呼吸と同時に噴き出てくる冷や汗だったり、ほとんど吃るようにしてしかいえない、自己紹介だったりした。
もっと軽やかになれ、と私の中の誰かが囁く。もっと責任を負え、と私の中の誰かが詰る。お前は夢を追うのではなく、追わされているのだ、と私の中の誰かが嘲笑う。お前はその抜き差しならない全てを背負ってなお、優しくなりたい、と思っているのだろう、と私の中の誰かが慰める。
遠くにいるときは、励まして、近くにいるときは、慰めてほしい。
それでも、あらゆることは今起こる。今、目の前で、全てが沸き起こり、全てが崩壊し、全てが作られていく。そのすべての多声性に向き合おうとすると、私は、私の精神と肉体とが、あるいは、覚悟と優しさとが、もしくは、健康さと狂躁とが、全てが分裂しながら奇妙なダンスを踊っているのを、ただ眺めていることしかできない。そうしている間にも、私は、罵倒され、限界を突きつけられ、地獄を見ろ、というメッセージを見つめることしか、できない。できなかった。私は、こうした世界のあらゆる思惑や悪意や猜疑や、あるいは厳しい優しさや愛の狂気や、そうした事柄を受け入れるに足る、私で、あるべきだろうか。
私は、私であるべきなのか。
ときおり、何も決めずに、どこか見知ったような、それでも来たことのない街で眠るようになった。
安宿のエアコンはやや黴臭い乾燥した風を排出して、やや黄ばんだカーテンは遮りきれない街の光を曖昧にぼかして部屋へ差し入れる。そうやって、知らないところで、知らないように、眠るとき、自分が自分であるための小さなルーティンや努力のことを、思いやるようになる。まるで少年少女が大切に抱きながら眠るそのぬいぐるみのような、それらについて。
ダイソンのドライヤーがないと、髪が乾かない、とか、アイロンがないとスタイリングができない、とか。ティーバッグで紅茶を淹れて飲みたくても、ティーポットがない、とか。
自分で自分にかけておいた、安心できるおまじないが、自分を縛っていく。自分で自分に何度も繰り返した、だいじょうぶ、が、だいじょうぶじゃないようになってしまう。自分で自分をだいじょうぶにしてしまったから、他者から受け取る、だいじょうぶ、を受け取れない。
寝れてるかな、とか、安心できる環境にいるかな、とか、そうした想像力は、同時に、想像する自分そのものへ厳しく矢が舞い戻ることになる。その「寝れてるかな」を差し向ける自分自身が、その善意の中に差し込む、微かな悪意や、微かな傲慢に、気づかないふりをしてしまうこと。
その悪意はおそらくほとんど悪意とは呼ぶに足りないもので、そして、傲慢もまた、傲慢と呼ぶには足りない。それでも、微かな悪意や微かな傲慢のない優しさは、あなたのことを想像する余地を持たない。見返りを求めること、こうだったらいいのに、こうなったかもしれないのに、の想像が、私とあなたを関係づける。関係づけることは、単に接合したり隣接することではない。関係づけるとは、あなたや私の中の重なり合うdomain:dominium(ドメイン・領域・力・主人)の、権力交渉でさえある。
自分のなかに仕舞い込んだ、だいじょうぶになれるおまじないは、そのdomainの境界線を決定するだけでなく、逆に、他者のだいじょうぶ、を損ねてしまうことさえある。
***
時間がかかる。通り過ぎてしまったものたちを、もう一度考えることにも。あるいは、驚く。すでに自分が通り過ぎてしまったことに。ああ、もうここに、自分はいないんだ、と思う。自分でさえ気づかず、大丈夫だったことにしてしまったこと。
そのことをもう一度、考えてみる。ああ、あのとき、自分は崩れて良かったんだ、と思う。あのとき、虚勢を張っていたのも、自分だったけれど、でも、あのときの自分は、苦しかったんだな、と思う。嫌だったな、と思う。
嫌だったな、と、思っていたはずの自分は、すでに朧げで、ばらばらになっていて、そのばらばらの断片とも呼べない、ぎりぎり浮いたり沈んだりしている微かな密度を、ようやくどうにか掻き集めてみて、それでようやく、泣くことができる。
泣くことでさえ、こんなに難しくなってしまったのか。大人になりたい、と思って、同時に、大人になりたくもないし、大人になれるほど冷静でもない。子供でいられるほど、自由でもない。
何かを掻き集めて、ああ、泣いてよかったんだ、と思わないと、泣いたり悲しんだり喜んだりすることさえできないなら、私は一体、何に対して、優しくなればいいのか。
だからやっぱり、遠くにいるときは、励まして、近くにいるときは、慰めてほしい。
変わったなら、変わったね、って、言ってくれたら、それでいい、んじゃないかな。

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