目の前のこと

目の前のことを大切にしない、というのに腹がたつ。そこにあるものに、なんでも詰まっているのに、どうしてそれをズラしたり言い換えたりなかったことにしたりするんだろうか? それを避けていても、何も変わらないと思うし、その避けている身振りを受け取るほうへ与えることで、無言のうちに「この状況に対する責任はどちらにあるでしょうか?」という問いを投げていることになっている。それに対して私は、黙るしかない。その状況に対して言及したとすれば、宙吊りになっていたことが自分ごとになってしまう。相手は何も言わずとも、こちらだけが気づいたことになってしまう。言ったほうが負け、という状況を意図的にせよそうでないにせよ、丹念に作り出せるのは、相当ずる賢いことだと思う。

むろん、仕事上で、とか、表面上で、という場合において、言わずにいるほうがベター、ということは多くあるだろう。けれど情愛や、親密さ、という場合においてはどうなんだろうか? それを避けてなかったことにできるほど、無関心でいることを求めるなら、それは親密さと呼ぶには程遠いんじゃないか? 自立、というのはそれほどサミシイ言葉じゃなかったはず。

もっと多くのことがありえるはずで、それぐらい「今」にはなんでもあるはずだ。それを開放性、と呼ぶのか、多義性、というのか、あるいは行き場のない所在なげな感じ、というのかは人によって違うけれど、いずれにしても「なんでもあり」だ。

行き場がない、とか、所在なげだ、ということでもちろん、繰り越し、という逃げ道も生まれてくる。大体の場合、私たちは今をつねに繰り越して次を生きているのだから、それ自体を責め立てるつもりはない。

でもだからこそ、所在ない日々のあれこれを、それなりにうまくやっていくために、所在のなさを狭める努力、というのが必要なんじゃないか? 日々を維持し、修復し、続けていくためのあらゆるケアを、インフォーマルケアに委ねるのではなくて、名前をつけて、責任を持って、やり遂げること。それによって余裕が生まれたり、綺麗なところができて、そこで楽しんだり他愛もない話を続けたり、緊張感をなくしたりできるんじゃないのか? あらゆることを繰り越してハンザツなまま余裕を生もうと思っても、それはただの怠惰と無責任と無関心の綯交ぜでしかないと思う。

パパが言うには

こんなことを書きながら、「晩年様式集」の真木の言葉が浮かんでくる。

真木はこの「もう時間がない」「時間です どうぞお早くねがいます」の代わりに「第1部・終り」と「読者へのお知らせ」式のもので「思い詰めた編集・発行人のパパに対する呼び掛け」として記した。しかし長江は「アサ叔母さんに、これはどういうこと? とエラソーニ問い合わせて来た、そちらこそどうなんだろうか?」

「三・一一後」の非常時だということでやっと気に掛かって、娘に編集させる私家版の雑誌でまず身内の反応をうかがおうとしたとすれば、なんという保身術だろう?

非常時、というのは何も、何も無いところから降りかかってくるのじゃない(観測できない隕石とか宇宙人はまた別だろうけれど)。いつだって気がかりなことはあり、その濃淡や日常のヴェールに覆い隠されていたゴツゴツした岩肌のようなものが迫り上がってくるだけだ。その気がかりなことの濃淡が、「なにもこんなときに……」というタイミングで色濃くなっていく。「こんなはずじゃ……」という後悔を思い出してみるべきだ。「こんなはず」というのは実のところ、過去のことを思い出している。それをもう少しでも、いまに向けてみたほうがいい。