どうか大切にしてほしい

長岡の花火に誘われて、京都の出張のあとそのまま車を走らせた。川の左岸側は地元住民が多いらしく、カメラを掲げたり写真を撮ったりする人は少なかった。自分たちの前にいる家族の子供たちは、二人とも花火の下で寝ていた。お母さんが、はじまるよー、と言いながら子供を揺り起こしていたが、すぐに二人とも寝た様子。これだけの爆発音と激しい光のなかで、おそらく夢と現実の微妙なあわいのところで花火を見ている彼らのことがやや羨ましくも思えた。彼がおとなになったとき、夏の夕暮れに家族の庇護とともに爆音の下に寝た記憶が、繰り返しきっと現れることだろう。その時間を大事にしてほしい、と思うと同時に、大事にすべきなのはむしろ私たちのほうで、私たちが彼ら彼女らの時間を守れるかどうかにかかっているのだ、と思った。

フェニックスと呼ばれるプログラム。終盤の方には枝垂れ花火が続々と打ち上げられる。学徒出陣や集団疎開、そうした言葉を思い出させる。ある中心へ向かってまっすぐに進んでいく。平原綾香のジュピターが流れていたけれど、私はといえばユーミンの飛行機雲を思い出していた。——空に憧れて/空をかけてゆく/あの子の命はひこうき雲……

1日目は恐々と花火を見ていたけれど、2日目になってくると、なんとなくのリズムがわかってくるので、落ち着いて花火が見れるようになる。土手の高さ、近くのドラッグストアまでの距離、終わる頃の混雑具合。そうした要素が自分の中で組み上がっていくと、ひとはどうやら落ち着くのらしい。

一種の気だるさとでもいうか、慣れのなかで、周りを見渡してみると、ほとんどの人たちが顔を上げて、空を見上げている。花火が開くと、その顔が赤や青の光で染め上げられて、両頬の影や、髪の暗さなどをうしろへ追いやり、流してゆく。きっとここにいる数万人、数十万人の人たちが、それぞれの考えのなかで、空を見ているのだと思うと、たとえそれが「きっと」という留保付きであったとしても、十分に希望を持たせてくれるものだった。

そんな花火のプログラムのなかで、こんな曲が流れている。

空を見上げてごらん 小さな星が微笑む 夢を見失っても 勇気を出して笑ってごらん

どうか忘れないで 夢はあなたを待っている

小さな1日だけど どうか大切にしてほしい あなたのものだから……

花火の轟音にところどころ掻き消されたりしながら、旋律が長岡の空気をなめらかにしてゆく。そんな歌詞を何度も反芻しながら東京へ戻ってきた。

非対称な愛着

戻ってきてから、いろんな星の辻褄が合ってきた、と思う。母が私に語ってくれた、いわば「私たち」の物語がある。私が聴覚障害を持って生まれたことを知った母に、周りの人が投げた励ましの言葉がある。「できる人のところに、子供は生まれてくるんや」「育てられる人を選んで、子供は生まれてくる」「その試練を乗り越えられる人のところに……」。それを聞いた母は、じゃああなたが育ててみなさいよ、と内心思っていたという。けれど、こうしてあなたが育って、高校で金沢に出て、大学に行って……あなたがいなければ開けなかった世界があるから、とても感謝しているのよ、と。

祖父もまた、同じようなことを繰り返し語る。ぜんぶあなたのお陰。あなたの母も、ずいぶん賢くなった。ありがとうなあ。自分だけじゃわからないことがたくさんあるんや。

そんなことを思い出したのは、おそらく次のパラグラフによるもの。

ここで提案されたパースペクティブにおいて、批判的構造主義の核心にケアを前景化することは、次のことを私たちに思い起こさせる。すなわち、モノへの批判的な切り込み、アッサンブラージュの一部の脱着が、生きられるもの(生き生きとしたもの)となるためには、再−接着を伴わなければならない、ということだ。この意味において、他方では、私たちがある特定の仕方で切ることができるようになるのは、私たち自身のアタッチメントによってであり、つまり、私たちが何がしかを他のものよりもケアしているからなのだ、ということを意味している。 In the perspective proposed here, foregrounding care at the heart of critical constructivism reminds us that, in order to be liveable, a critical cut into a thing, a detachment of a part of the assemblage, involves a re-attachment. This means, on the one hand, that we become able to cut in a certain way because of our own attachments, because we care for some things more than others.

ケアをする、というのは、ここでは「気に掛ける」とか、心配をする、注意をする、ということも含まれている。いわば情動的な行いを私たちが行うのには、「無罪ではありえない」やり方が潜んでいる。

私たちはただここで生きていて、無垢ではない/潔白ではない対話を始めるべく試みている。視覚化技術を含む補綴的な装置を通じて。 We just live here and try to strike up noninnocent conversations by means of our prosthetic devices, including our visualization technologies.12

なにがしかの私たちの信念や、行動、判断の裏に張り付いている決断には、ほとんどの場合この「無垢ではない」、無罪ではありえないケアが潜んでいるのじゃないか、と思う。それは非対称性を持っている。無償であっても誰かや何かに情熱を注いだりするのは、この非対称性によるものだろう。けれど、この非対称性を負い目に感じ始めると、あらゆるものが、まさにそれこそ「音を立てて」崩れてゆく。

手立てはたくさんあるのだけれど、むしろ非合理的なことを選ぶ私を、抱きしめてあげたい。そうしてケアをしてゆくことが、生き生きとしたものとして、世界や私やあなたを、生きられるものにしてゆく。それは「私」の物語ではなくて、やはり「私たち」の物語なのだと思う。

Footnotes

  1. Haraway, D. (1988). Situated knowledges: The science question in feminism and the privilege of partial perspective. Feminist Studies, 14(3), 575–599. https://doi.org/10.2307/3178066

  2. Haraway, D. (1992). Ecce homo, ain’t (ar’n’t) I a woman, and inappropriate/d others: The human in a post-humanist landscape. In J. Butler & J. W. Scott (Eds.), Feminists theorize the political (pp. 86–100). Routledge.