展評《透ける星現れて》 / Still visible in daylight, star?
キュレーター・研究者 waxogawa/小川楽生
概要
本展は、「私/公の時間配分」をめぐる実験として解することができる。会場には、壁面作品4点、床に散乱する作品、満/空サイン状の作品、ハンドアウト兼用の映像装置、そして奥にソファとパーソナル・コンピュータ、観葉植物が据えられた半私的ゾーンが配置される。パーソナル・コンピュータは「操作手順」ではなく禁止事項の戒律で観客を迎え、カーソルや右クリックで音・映像・テキストのポップアップが不規則に現れる。会場に鳴る、引き伸ばされた音響とあいまって「展示の終わり」を観客に計算させる。ここで露わになるのは、鑑賞対象に割り当てられる時間の不均衡である。数秒で判別できる満/空サインや郊外的風景の絵画は、移動=A↔B(私↔公、日常↔非日常)のチューブを示し、奥の減照度空間と呼応して、私的操作の場と展示=公共の場の「あいだ」を仮設する。
理論的には、制作と展示の等価化(Groys)と、参加の自明化への警告(Bishop)を踏まえ、関係の多寡ではなく「配分」の倫理へ焦点を移しながら考えることができる。インスタレーションは作家の主権とキュレーターの公共的な倫理の差異を可視化するが、より切実な問題系として、現代の可処分時間を透かし見るメタファーを引き出せるはずである。ここから、私的スクリーンに向かう時間をいかに外部(exhibition)へ転地できるかを問う。結語としての問い——昼間の星はなおも可視的か?——は、強い昼光=公共圏のまぶしさのなかで微光を読む訓練、すなわち時間の会計に耐える鑑賞の実践を要請している。
日差しはあたたかく、風は十分に冷たかった。年末の軽やかな焦りと高揚とを同盟関係にするには、充分であった。武蔵小山駅の周辺で、ひとはみな、何かの目的があるような顔をして、それぞれの機会や時間を処分しているようだった。
展示に訪れると、私はひとりで、他に鑑賞者のいない空間に佇むことになった。所在なげな私の視線をどこかへ定めようと、まずは全体の構造を把握しようと試みる。
平面的な(壁にかけられる)作品が4点、床に落ちた衝撃によって散らばった(ように見える)作品、駐車場の満車/空車を示す看板状の作品、ハンドアウト類の什器を兼ねた映像、がそれぞれ1点。そして展示スペースの奥まった空間に、ソファ、パーソナル・コンピュータ(やや丸みを帯びた、かつてなんでも透明にしたがる時代があったことを思い出す)、テーブル、観葉植物があった。
私はまず、そのソファに腰掛けて、電源のついたパーソナルコンピュータが、何のために置かれているのかを把握するところから始めようとした。そこには、あるサイトが表示されていた。パーソナル・コンピュータの横に添えられたキャプション(注意書き)は、操作方法を示すプロトコルではなく、禁止事項でできた戒律になっていた。したがって、私は、上にスクロールすべきか、下にスクロールすべきかを探りながら、また、禁止事項に抵触しないよう、ことを進める必要があった。そのうちに、ブラウザ上のオブジェクトにカーソルが重なると、右クリックによってポップアップ表示が出てくるらしいことがわかる。次第に、ポップアップ表示にもヴァリアントがあることを見つけ出す。それは音源だったり映像だったり、あるいはテキストだったりした。
私は、ひとつひとつのポップアップに何が言い含められているのか、すなわち、作者の作為が、どのようにテキストや映像と結びつきあっているのかを検証しようと試みた。そうした、一種のホラーゲーム的な操作(裏切りや期待の政治)を受け取りながら、すでに、そこで10分ほどの時間が経過していることに気付く。そうして、ソファの程よい沈み込みに身を委ねつつ、目線を外へ:公へ投げ出してみると、国道2号線へ合流する道路が見える。買い物帰りの主婦と思しき人が自転車に乗りながら家路を急ぐ。あるいは車内でスマートフォンを操作しながら信号待ちをしている男性がいる。この道路に面したsame galleryの4枚のガラス戸を隔てて、「私は今日、外出したのだが、ひとりでこの場所にいることは、果たして何を意味するのだろうか」と思った。
この空間は、確かに招かれた場所でありつつ、その歓待はむしろ、私たちを不安にさせるタイプの歓待であると思った。展示内に鳴り続けている、引き伸ばされた音は私の意識を混濁させ、展示から出ていくタイミングを見失わせるようだった。タイミングだな、と私は思う。偶然性、あるいは瞬間性、と捉えることもできるが、ここでは、時間の巧妙な計算について、私は考えることになった。パーソナル・コンピュータに向かい合う時間と、平面作品や標識を見る時間、それぞれの配分について。
この展示において、私的な時間と、公的な時間とのアンバランスさ、つまりは、可視的なオブジェクトに分配される時間の不均衡性が、可視化されている、ということに気づく。
平面作品を視野に収めるのにかかる時間は、悲観的に見積もれば十数秒、長くても2、3分以内だろう。あるいは、駐車場の満車/空車の判別においても、数秒ほどの判別で十分、といえる。むしろ、私たちは日々の生活において、駐車場の利用可能性を判別するのに熟慮することを求めていないし、求められてもいない。どうしてもその駐車場でなければならず、空きそうかどうか(誰かが出ていくかどうか)を考えたり、あるいは、他の選択肢があるとすれば、どこへいくのが最適化を考えるのに数分の時間が要されるとしても、それは「満/空」の記号的な判別の範疇外・目的外であるし、そのとき私たちは駐車場そのものより、私が置かれている条件や状況についての思慮を巡らせている。
また、壁にかけられた平面作品——車内や車外の景色が、移動しつつあるようにして描かれている——は、郊外的な、さして目新しくはない風景を示している。それは横滑りするような筆致で、イメージ自体の陳腐さを撹乱し、反転させるように機能している。あたかも「私が陳腐なのではない、周りが陳腐なのだ」というように。そうしたキッチュな仕草は、私的な領域から公的な領域へ「関係しつつある」領野として掲げられ、同時に、本展が現代芸術の領域へ「関係しつつある」ことを示してもいる。移動的な絵画、動きつつある、というイメージは、チューブ状のものとして機能する。それ自身がアイロニーの補助機能として成立することで、AからBへ移動するそのあいだのチューブ状の時空間や制度についての視線を可能にする。AからB、というのは韓国から日本、であってもよいし、日常から非日常へ、であってもよい。
ここで(キュラトリアルに)示されているイメージは、こうした「移動」にまつわる「関係しつつある」という状況を、その表層的な意味合いと、制度的な意味合いの重なった部分において、指示するものになっている。ひとつは、移動にまつわる郊外的なニュアンスを「関係しつつある」動きとして平面的に呼応してみせること。もうひとつは、ごく私的な操作と感応の空間(パーソナル・コンピュータと観葉植物とソファ)から、芸術的に公的な空間(ギャラリー・販売スペース・作品陳列)のあいだに「関係しつつある」領野を、仮設してみせること。この二重の指示により、可搬的な作品群のイメージと、現代芸術の文脈に埋め込まれる(embedded)ようにインストールされたイメージとが、共鳴することになる。展示会場の奥まったスペースは、あたかも私的な空間のためにあったかのようであるし、作為的に照度が落とされたその暗さもまた、私的/公的の「関係性」を共示するうえで役立つ。視線と滞在時間の伸縮が、キュラトリアルな空間設計のうえで実現されていると言えよう。
この限りにおいて、本展は、進行しつつあるプロジェクトの成果展ではなく、何かの調査の結果でもなく、複数人で発表の機会を分有し、金銭的な負担を分散させるようなものでもない、と解してよい。
そして、このインスタレーション空間で、キュレーターが実働化(actualization)していくのは、時間性(temporality)なのだと思えた。その共通の(con-)時間性としての、現代性(contemporality)が立ち上がってくること自体に、さしたる違和はなかった。それゆえ、この展示はコンテンポラリー・アートを扱うということに関しては留保がつかず、しかし、この「コンテンポラリー」たるイメージの是非に対して、考えるべきだと私は判断した。テキスト上では恭しく縮減されているが、ここで示される「私」と「公」の区別は、時間に関わる政治であり、そして、それはボリス・グロイスが提示してみせるような、主権者と公共の関係(Groys, 2009)を下敷きとして、説得的に機能している。
それゆえ、私はとりあえずの妥当な納得感として、《透ける星現れて》は、現代の可処分時間についてのメタファーを透かすように指示しているのだ、と受け取った。
日々、私たちは忙殺されているし、現代芸術に割り振られる私たちの可処分時間は、わずかである。現代の可処分時間は平日:2時間53分、休日:8時間24分なのだそうだ。そのうち、いわゆる美術館で実施されるものではない、こうした自主的なキュレーション企画や、インスタレーションに向けられる時間の総量は、まさに民意を反映した量となるのだろうか。パーソナル・コンピュータに向かい(今はスマートフォンに向かい)、明滅するスクリーンを眺めるその私的な時間を、いかにして展示(exhibition)という外部(ex-)へ向かわせるか。キュレーションが説得的である、ということが、イメージ上での説得性と、現代芸術制度上での説得性、この二重の指し示しを超えて、可処分時間の説得力にまで、関わることのためには、何が必要なのか。
グロイスは「メディウムからメッセージへ——新たな世界の秩序モデルとしての展示」(以降、MM)と題された論考において、アーティストは主権者(sovereign)であり、キュレーターは公共(public)の代表者(representative)として振る舞うことを提案している。この主張の前段となるパッセージでは、「今日では制作(making art)と見せること(displaying art)のあいだに存在論的な差異はない」という有名な定式化があり、このことは『Art Power』(Groys, 2008)や『In the Flow』(Groys, 2016)においても受け継がれてゆく基本的な姿勢となっている。MM内では、メイキング/ディスプレイの同質化を基礎としつつ、現代アートの表象するイメージの弱体化を述べ、そこからキュレーターの「キュア」(治癒)たる職能を「弱体化したイメージの治癒にかかわる」ものとして規定してゆく。
アート・インスタレーションは、主権者の権利の領域(domain)を、個別のアートオブジェクトから、展示スペース自体へと拡張する手段である。このことは、すなわち次のことを意味する——アート・インスタレーションは、アーティストの主権的な自由と、キュレーターの制度的な自由のあいだの差異が可視化され、そして、すぐに体験できる空間であるのだと。(Groys, 2009, p. 60. 筆者訳)
この主張は最終的に、インスタレーションという形式での実践は、展示空間内で執行される規則の確認にかかわる倫理的・政治的な実践であると示される。それは「マルチチュード」的実践であり、「民主性のデモンストレーション」(Groys, 2009, p. 63)であり、主権/立法/公共にかかわる、オルタナティヴな再上演であるのだという。
《透ける星現れて》において、キュレーターが協働しようとしたイメージの組織化、アーティストらへの交渉のプロセスの形象化——その帰結としての、二重に「関係しつつある」というイメージ、私/公の往復——は、たしかに、現代芸術を通じたオルタナティヴな合意形成のデモンストレーションとして機能している。強気にいえば、個人と美術館の関係を往復するように「移動」があるし、在日問題とナショナリズムの往復(とそれに必要な証明写真的なイメージ)がある。さらには、作品の運搬の途中に起こりうるアクシデント、破損、そうした脆弱な(vulnerable)傷つきやすさを、「現代性」のいたたまれなさ、うつろいやすさ、同時に長閑な、郊外的でありふれたイメージに感染させることもできる。こうしたイメージに、私は(私たちは)すでに関与しているし、《透ける星現れて》を通して、参加することもできる。
芸術作品を参加を引き起こすための潜在的なトリガーとしてみなす発想は(…)さほど新しいものではない。これらはいずれも、リレーショナル・アートに対するブリオーの擁護に極めて似た、民主主義と解放のレトリックを伴っていた。(Bishop, 2004, p. 61)
一方で、MMに登場したグロイスの定式化には多くの問題がある。正確に言えば、その源流にあるニコラ・ブリオーの『関係性の美学』(Bourriaud, 1998)に問題がある。このことはクレア・ビショップが手厳しく批判しているところである(Bishop, 2004)。端的にいえば、参加を促したり、関係性を示したとして、それは民主的であるとはいえないし、政治的な地平を包含するゆえに、より混濁がひどくなるということである。
対話の内容はそれ自体で民主的なものではなく、なぜなら、そこでのすべての疑問は「これはアートなのか?」という取るに足らない陳腐な問題に立ち戻ってくることになるからだ。(Bishop, 2004, p. 68)
ビショップによる「取るに足らない陳腐な問題」という批判は、《透ける星現れて》で組織化されたイメージに直接投げかけることもできよう。今日において、車に乗ったことのない人は少ないだろうし、移動という時間を経験したことのない人は、皆無に等しい。そうした参加の容易さと、新鮮なイメージとのトレードオフが、ここに生じる。時間を効率的に配分させるためには、展示のイメージは十分に魅力的でわかりやすくなければならない。他方、現代芸術の論脈においては、浪費されたイメージの再利用は陳腐なものになってしまう。
さらには、平面作品が単にイメージの補助機能として機能させられている、という反論を退けることはできているだろうか。アーティストはキュレーターのいわば受け子であり、小間使いに成り下がっている、という批判に、どう対応すべきだろうか。
キュレーターとアーティストの対話のなかで、キュレーターが指し示す星座と、アーティストらの運搬による編成が組織化されていく——こうしたキュレーションの態度はある程度方法論として民意を得つつある。一方で、しかし、キュレーターの老獪化、なにごとかを賢しらに呟くような、いわば、キュレーターのダンブルドア化である。
ダンブルドアが回収していく伏線の数々は、まさに登場人物の布置を星座的に繋ぎ合わせてゆく。もはやスネイプとの共謀(conspire)は、陰謀論(conspiration)である。往々にして、そうした共謀や陰謀は、ひそかに行われる。闇夜のうちに遂行されるような、秘密作戦なのである。星座が結び合わされるのは闇夜のうちにであり、気がついたら(目が覚めたら)、すでにことは終わっている。周囲のものは、してやられた、と叫ぶことになるのだ。
他方、グロイスやブリオーによる「関係性の美学」や、イメージへの参加といった定式化は、こうした共謀・陰謀を、政治的な含意のもとで、民主化してみせた。いわば、昼間に星座を描くような運動として、である。いつのまにか伏線が回収されるような鮮やかな密偵ではなく、絵描き歌のような、のほほんとしたエンターテイメントのうえでイメージが組織化される。しかし果たして、関係による星座的なメタファー、相同性の操作は、政治的な含意のもとで行われるべきだったのだろうか。現代芸術における時間の配分は、狡猾なわざとして遂行されるべきか、ワークショップのような、なにか陽光の下でのピクニック然としたうららかさとともに実施されるべきか。あるいは第三の星や光は、どこにあるのか。あるとすれば、それは可視的か、不可視的か。
制作と展示、公と私が交差するこの場で可視化されたのは、作品の出来不出来よりも、滞在の設計=時間の政治だった。ゆえに本展の倫理は、関係を増やすことではなく、関係に費やす時間を自覚化させることにある。制作と展示の等価化(Groys)に拠りつつも、参加の自明化(Bishop)を回避して、考えられるべきは「関係」ではなく「配分」の倫理である。私的/公的の往復は、民主化のレトリックを上塗りするのではなく、滞在の長短・視線の移動・判断の速度という実装へと落ちる。ここにおいて「コンテンポラリー」は時代名詞ではなく同時性(con-temporality)の装置名となる。
さらにいえば、もし鑑賞を「無料の資源」あるいはいつでも見られる遅滞した光としての「星座」として浪費し続けるなら、満/空のサインは永遠に満たされない。その浪費を野放しにしないためにも、キュレーターは可処分時間の会計簿に向き合う必要がある。星座は夜の特権ではない。昼光のなかで星を読む訓練、これがこの展示の最終的な要請である。昼間の星を見るとは、この強度に耐えることの別名だ。
参考文献
- Bishop, C. (2004). Antagonism and relational aesthetics. October, 110, 51–79.
- Bishop, C. (2013). Radical museology: Or, what’s “contemporary” in museums of contemporary art? Koenig Books.
- Groys, B. (2008). Art power. The MIT Press.
- Groys, B. (2009). From medium to message: The art exhibition as model of a new world order. Open: Cahier on Art and the Public Domain, (16).
- Groys, B. (2016). In the flow. Verso.
- Bourriaud, N. (1998). Esthétique relationnelle. Les Presses du Réel.
- Bourriaud, N. (2002). Relational aesthetics (S. Pleasance & F. Wood, Trans., with the participation of M. Copeland). Les Presses du Réel.