2023年1月19日〜1月30日 新宿歌舞伎町
あらゆることが可能で、あらゆる試みが失敗し続ける。私たちは確証を持てないまま彷徨い続ける。私たちの願いは、「だからどうか、身体を与えてください」。復活したキリストは私たちに告げる、Μή μου ἅπτου(私に触れるな)ヨハネ:20:17。
脱中心的な発作としての願いは、ゾンビを経由地として、崩れ去りながら、崩れ去り損ねながら、詩的な声を可能にする。それは囁き声で、うめき声で、複数のげっぷで、データに死に方を教えてくれる。消去されることのないアカウント、顔を忘れたままの可能性、咀嚼の痕跡としてあるチューイングガム、風景なき風景、シニフィエとシニフィアンのあいだ。
器官なき参加における〈複−存在的−声〉は、終わりのないダンスを繰り返し、「され損ない」続ける。新しいエコロジーやANT(ブリュノ・ラトゥール)など、もはや不要で、やまつきつきとして在る「崩れ+され損ない」そのものを擦り抜ければよい。そのための戦争や器官や装置はもう、私たちが用意したから。
① 古川諒子
「コロンブスの最初の秘書」 910×727mm
「ぜいたくな生活と恐怖映画」 652×530mm
顔を失ったまま、あなたを愛することができるのかどうか、確かめるための戦争。英単語帳を切り刻み、できた言葉を元に作品を制作。機械を通過しないまま波打つラブレターは、ゾンビとあなたとわたしたちと…そのほか…のあいだで頭をもたげる。
② 山田響己
「I claspt」
ミクストメディア、インスタレーション。
私たちのあいだにあるヒューマニティについてのイメージを共鳴させる装置。チューイングガムの残滓を、人間の本性的な生存行為の空虚な痕跡として捉える。フレームとして立ち上がるヴォイド・ヒューマン。走査線として走る身体の写真的断片が展示会場を照らし出すことで、展示会場がゾンビの身体の棺桶あるいは運動そのものとして現れる。
③ waxogawa
「がやらはやらのやらにやら」
映像作品。シングルチャンネル、ブラウン管テレビ。
言葉なきままに、夢を見ることについての試験。先天性重度難聴の子供を持つ母親へのインタビュー。撮影時30fpsの動画を機械的に60fpsに補間。その映像の歪みと、言葉を後天的に獲得することの歪みを重ね合わせている。母親が子供に言葉を与えること、そして子供とともに生きること。言葉が互いに特有のヒューマニティをカラビナとして、交差点を形成し、発話を後押しするゾンビになる。
④ 太田遥月
「unprepared」
サウンドスカルプチュア、ゾンビ的所有物を剥ぎ取ってくること。
ゾンビのための耳を形成する外科手術。痕跡が強く刻まれた風景=震生湖からのフィールドレコーディングでもなく、空虚な木から採取されうる音でもない、手術中に聞き逃された音。
——楽器が音楽のための道具である以前に備えている物質性、あるいは音が音楽のための記号である以前に満たされている空間性(ティモシー・モートン)。
空間の位相変化、アーティストの身体、そして、空虚なオブジェクトが組み合わさるとき、どこからも担保されえない豊かな衝撃のみが中空で浮遊する。対象化された地層を依代として、逆位相的−プリペアドピアノが用意される。そして発生する、複数のゾンビのうめき声によって、私たちが調律される。採取されえないもの、再現しえないもののために、ゾンビの耳をここで形成する。
⑤ 橋爪志保
「万力」
短歌連作10首。アクリル板。
弛緩と弛緩のあいだで星座を描く望遠鏡。人間以外であったときの記憶が、ゾンビに対して祈ることを教えてくれる。
さりながら
waxogawa
夕霧は父をゾンビとして経験する。愛されそこなった確執、存在しそこなったものが放つ声は囁き、複数で擦過し、器官なき身体として、あなたとともに交差点へ覚悟しゆく。わたしはあなたの痛みに晒されることを許し、あなたと永劫に交差できないことを全身全霊で思い知る覚悟を持ち、幻影であれ、わたしはそれでいい、と思っている。
フレームのみが寒々しく降り立つ原野、ヒトを対象としない音、ヒューマニティが崩れ去りつつ、残響として豊かに滞留する衝撃。
わたしたち——バーナード、スーザン、ロウダ、ネヴィル、ジニー、ルイ——、はもうこれでいいかと思えていて、これでいいかと思えていて、まだ無理で、まだ無理で……
さあ、何か目的があるふりして部屋を横切って、覆いのかかったバルコニーに出ましょう。見える、燦然と輝きわたる月光が、やわらかく羽根を広げる空が。見える、広場の柵と、顔のない二人が空を背に彫像のようにもたれ掛かるのが。ということは、変化を免れた世界があるのね。ナイフのようにわたしを切り裂く舌が閃き、口ごもらせ、嘘をつかせる広間から抜け出ると、わたしは目鼻のない、美をまとった顔をいくつも見る。恋人たちがプラタナスの木陰で抱き合っている。警官が通りの角で見張りに立っている。男がひとり通り過ぎる。ということは、変化を免れた世界があるのね。でもわたしは炎の先端につま先立ち、その灼熱に焼かれ、ドアが開くのが、飛び掛かってくるトラが恐ろしくて、ひとつのセンテンスを平静に言い終えることすらできない。わたしが言うことは永久に否定されつづける。ドアが開くたびにさえぎられる。わたしは二十一歳にもなっていない。わたしは破滅する運命。一生、侮蔑されつづける。ひきつった顔や嘘をつく舌を持つ男たち女たちのなか、わたしは荒波に浮かぶコルクのように上へ下へともてあそばれる。ドアが開くたび、水草の細ひものように遠くへ投げだされる。波が砕ける。わたしは波の泡。岩の遠くの果ての果てまで洗っては満たす、純白の波の泡。この部屋では、幼い少女でもあるのよ。
——ヴァージニア・ウルフ『波』
わたしたちはゾンビであり、わたしであり、絶え間ない思考の反復であり、打ち寄せては引き返す波である。脱退と参加のはざまで、次第にある確信を得るようになる。ゾンビは資本主義の属隷として、あるいは同時に資本主義を脱コード化し、資本主義の内側から生成変化を巻き起こしながらも、その流れを資本主義の帝国へと帰還させる。ことばもそうだ、シニフィアンからの撤退と収斂。芸術はそれらのあいだで、空中分解しながら、母艦=シニフィアンの感染作用=顔貌性に気づかれないうちに詩を作りだす。あなたがいなければ完成しないこの部屋は、ドアが開くまで……〈他−性〉を素材としたわたしたちの波は次第にうれしく顔を失う。あなたはここにいたのね!
ゾンビの素材:わたしたち。わたし。あなた。資本主義。バーナード。スーザン。ロウダ。ネヴィル。ジニー。ルイ。生。死。
この部屋の素材:衝撃。顔を無くした絵。空虚な人形。超越的−耳。弛緩した言葉。再構築としての現働化の力能。「かもしれない」こと。
「時しあれば変はらぬ色に匂ひけり片枝枯れにし宿の桜も」
わざとならず誦じなして立ちたまふに、いととう、
「この春は柳の芽にぞ玉はぬく咲き散る花の行方知らねば」
——源氏物語、柏木、第三段
季節はめぐって、いのちの匂いはいつもこうなのだろうか。顔を無くしたあなたとともに死んだとして、わたしたちは今際のきわであなたにずっと愛されそこなっていたことを知るのだろうか。顔を無くして、尊厳なきままにわたしたちはゾンビとして愛し合って、そのときも何処かで起こる紛争を、前線の更新を、もうわたしたちは必要としない。咲き散る花の行方を知らずとも、わたしたちはこの世界を信じているし、身体があたわざるとも、ここで生きることはできる。ドゥルーズが示したように、世界はフィクションであり、わたしたち無神論者であれキリスト教者であれなんであれ、この世界を信じる理由を必要とする。
半睡のなかで、あなたの顔を喜ばしくすっかり見失いながら、光の方へ溶けゆくあなたをこれ以上なく適切に、齟齬を孕んだまま、抱きしめること。顔貌性と秩序は近しい関係にあるが、顔貌性なしであなたに触れることは、予見可能性を持たずに、詩としてあなたに邂逅することでもあるのだから。このとき私たちの存在は詩であり、声であり、反響であり、芸術の存在論そのものになる。
……然しそれにしてもそれは終わりのないダンスだった。
かつてあった思いやりや他性を通り過ぎ、再編成することは全くもって希望的な試みであり、絶対に黙らないことである。〈黙り損なう〉のではなく、〈黙られ損なう〉のである。文法的には正しくないが、もはや正常な構文ではこの衝撃を抱えきれないのだから、致し方ないだろう。〈存在し損なわれる〉のではない、〈存在され損なう〉のだ。「存在する」というサ行変格活用の動詞に、「し損なう」が接続され、受身や使役の意が含まれるとき、通常であれば「し損なう」が変化し「し損なわれる」になる。しかしこれはヒトにとって損失が生じている。私たちは何も失っていない。出来事や存在の方から、「され損なう」のだ。損なっているのは出来事であり、私たちではない。愛し損なわれるのではなく、愛され損なっていて……
不安や逡巡、間に合わせの間主観性といったものが、わたしたちの存在をしなやかにしていく。そこにある弛緩が、シニフィエとシニフィアンのあいだを緩め、詩的な声を可能にし、芸術の存在できる中空を生み出していく。そこで専制君主的シニフィアンは眠りにつき、あの裂開性の夜がここで到来する。そこで私たちが半透明なのか、ゾンビが半透明なのか。わたしたちはゾンビになりうるが、ゾンビはわたしたちではない。わたしたちはゾンビを他性のもとで認識する以上、わたしたちはわたしたちの身体において内外を併せ持つ。ゾンビがわたしたちをすり抜け、わたしたちはゾンビをすり抜ける。
そう、ここでわたしたちは運動を持たない。運動されているのでもなく、運動しているのでもなく——作用と反作用なしで——、あらゆるものが潜在的に出会い損ね、存在し損ねている。「存在し損ねている」ということは興味深い。存在し損ねていることを、私たちはどう理解しているのだろうか? し損ねる、という潜在性あるいは中間地点をどう把握しているのだろうか?
次のようなテーゼを検討しよう。
存在することと存在しないことをどう理解しているのか? そして、存在し損ねることは、本当に存在することと存在しないことの中間にあるのか?
〈し損ない〉を考えるとき、わたしたちはここで試金石たる身体や記憶、知識といったものを無用にしなければならない。試金石たる身体は序列化可能で組織が役割を持ち、血液が上から下まで巡っている。そこには運動がある。〈組織化された=役割を持つ=序列化可能な〉身体は運動可能で、常に運動の潜勢力を把持している。例えば痛みや愛撫、こうした刺激を受容可能であることは常に同時に〈運動に対して潜んでいる〉ことの証左となる。潜むことは器官を持ち、おのれの役目を忘れていない。眼はいつも眼として、それが何を解読したりするかは関係がなく、待つことを恐れない。潜む身体は待つことに対して開かれている。記憶の系譜学もここで可能で、〈身体=潜むこと=待機=記憶〉の連立方程式が可能になる。反転させて言えば、復活し損ねた身体は、いつも〈潜み損ねて=待機し損ねて=記憶し損ねて〉いる。復活し損ねた身体こそが、器官なき参加を可能にする。
潜むこと、息を殺して、見張り、静寂から騒音へ転化する瞬間を待つこと。あるいはその逆でもありうる。自らが誰かにとって敵であると知られないように、あえて騒ぎ、周囲に馴染み、その時が来るまで堪えること。文を読むことでさえそうだ、身体は絶えず潜みながら出来事が私に対して語りかけてくるのを待っている。今ここで文体が眼や耳やその他の器官によって起き上がり、私の思考とともに並走しながら私に何ごとかを語りかける。それは潜みに隠れていた身体が〈記憶の系譜=刻み込む行為=連動すること〉を行使しながら私の存在と〈出来事のための潜勢力〉が鳴動するべく声を可能にすることである。このとき声はいつも明晰になる必要があって、曖昧さから明晰さへの波動関数が組み立てられる。ただの器官の唸りであったもの、振動でしかなかったものが、距離を隔てながらその距離を泳ぎ、作用者と被作用者のあいだに届くことで、身体のための律動になる。
曖昧さから明晰さへの波動関数を経由せず、触れることと触れないことのあいだで存在を引き受けること。それは、あなたとわたしのあいだや、存在と非存在のあいだで皮膚を培養していくことであり、細胞間基質が生き生きと〈触〉を可能にすることである。あいだや曖昧さや馴化は中間地点を埋めるために存在するのではない。それ自体が存在であり、出来事であり、潜勢力であり、生そのものである。何かからの逃避や、二項対立の結果としての曖昧さではなく、もはやそこに向かうしかなく、覚悟をもって対峙していく曖昧さである。確かに曖昧さは暴力の行使とは対極的であるが、器官なき参加における曖昧さは衝撃でありうる。衝撃が器官なき身体を呼び起こし、世界の多声的全てが私たちに一斉に語りかけ、その曖昧さを通じて〈私たち=脱地層的−共鳴的現働化の身体〉はゾンビに対して開かれる。ゾンビの呻き声と脱地層的−共鳴的現働化の身体の〈複−存在的−声〉はハウリングし、潜勢力のための子守唄になる。
たとえ、人間の不思議な言葉、天使の不思議な言葉を話しても
愛がなければ私は鳴る銅鑼、響くシンバル。たとえ、予言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
愛がなければ私は何物でもない。たとえ、全財産を貧しい人に分け与え
たとえ、称賛を受ける為に自分の身を引き渡しても
愛がなければ私には何の益にもならない。愛は寛容なもの。慈悲深いものは愛。
愛は妬まず高ぶらず誇らない。
見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数えたてない。愛は決して滅び去ることはない
予言の賜物なら廃りもしよう、
不思議な言葉ならば止みもしよう、
知識ならば無用となりもしよう、
我々が知るのは一部分、また予言するのも一部分である故に、
完全なものが到来するときには部分的なものは廃れさる。私は幼い子供であった時、幼い子供のように語り、
幼い子供のように考え、幼い子供のように思いを巡らした。
ただ、一人前の者になった時、幼い子供のことは止めにした。我々が今見ているのは、ぼんやりと鏡に映っているもの。
その時に見るのは顔と顔を合わせてのもの。私が今知っているのは一部分。
その時には自分が既に完全に知られているように、私は完全に知るようになる。だから引き続き残るのは信仰、希望、愛、この三つ
このうち最も優れているのは、愛。——コリント人への手紙、第十三章