2026年9月8日
ベオグラード行きの飛行機の時間を間違えて+オーバーブッキングで空港で待ちぼうけ。10時間…… カフェで隣の人と3時間ほどおしゃべりをして、資料を作っている。ボルドーで山火事があって、3人の犯人による放火だったこと、shibuyameltdownというインスタアカウントがあって、酔い潰れた人の写真がたくさんあること、滞在先のセルビアの空爆のこと、レーダーに捕捉できないはずのものを打ち落とした人がいること。
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最近よく繰り返し、考えていることがある。ノートに書いたものをそのまま移植してみようと思う。
産毛と産毛が触れ合うような距離で、例えばそれは、互いの吐息が、互いの吸気に変わるような親密さのなかで、魂が震えるようなところで、諄々と湧き出てくるコトバのなかで、何度もうたた寝をした。コトバと意識が薄れかける、そうした白い靄の中へ何度も歩み入った。きっとそのとき、書き留めておけば、スバラシイものになったかもしれないコトバの数々を、フイにして。
それらの屍を素通りして、僕は幾つもの昼や夜を眠っていった。雨の中を、風の午後を。そんなベッドを、親密さの中を、湿度の飛び交う温室をゆっくりと抜け出して、バイバイをしなきゃならない。そのバイバイは、もしかすると、僕が僕自身へ読み聞かせる御伽話のようなものなのかもしれない。
小さな子供に読み聞かせる御伽話のように。安心しきったマロヤカな場から、コトバでもって抜け出して、冒険へ:アドヴェンチャーへ飛び込んでみるように。けれど、決定的に異なっているのは、それを書き始めてみると、あのころのように、冒険を中断したりして、白いオクルミのなかに眠りこけることなどできないということだ。僕からヤメることはできないのだと思う。自分でもってシマイまで持っていかないと、その物語は、語り継ぐことができない。使い切りのものになってしまう。それが継がれていくためには、やはり何かしらのシマイを作らないとならないのだった……
そんな物語はきっと、不思議な話になることだろう。ゆっくりと、気付かれないように。忍び足で抜け出さないとならない。このイメージ——そんな忍び足の御伽話を作らねばならないこと——は、僕にとって何度も繰り返される慣用句のよう……いわば「お決まりの」コトバなのだけれど、いつだってそれはシマイがない:締まりがないことなのだった。不思議な話ね!